株式会社サクラクレパス

ヘッダーナビゲーション

  • メールマガジン
  • 採用情報
  • English
  • 文字の大きさ
  • 小
  • 中
  • 大

グローバルナビゲーション

  • 商品紹介
  • イベント紹介
  • みんなの展覧会
  • 会社情報
  • 採用情報
  • お客様相談窓口
  • 絵の描き方講座
  • 画材について

サクラコラム

日本の油絵具発達史(後編)―ようやく諸外国に追いついた戦後の国産油絵具―

 日本における油絵具の発達の歴史について、前編では奈良時代の密陀僧みつだそう絵具から始まる独特な油絵具の発達から、外国製油絵具の輸入が盛んになった明治時代、国産油絵具が誕生した大正時代までをたどりました。その後編として、戦後になって日本が本格的な国産油絵具の開発に着手した経緯を紹介します。

日本における油絵具の起源

 『大阪工業技術研究所五十年史』(昭和42年刊)には、日本が戦後になって本格的に油絵具の開発にとりかかった様子が次のように記述されています。「戦後、軍需に関係のありそうな研究はすべて禁止され、平和産業に関連した研究問題に全面的に切りかえられた状態になったとき、たまたま昭和21年の朝日新聞天声人語欄に、フランス・イギリスなどの高級絵具の入手ができない現在、優秀な国産絵具の出現を画家たちは熱望している旨の記事が載った。わが国における専門家用の高級絵具は、戦前はほとんどフランス・イギリス製の輸入品に限られていたが、戦争によりその輸入がとだえてしまい、わが国ではそれらの製造法は確立していなかったため、画家の困窮は一通りではなかった。上記新聞の記事を見た桑原はさっそく、天声人語欄担当の荒垣秀雄氏や著名な画家の歴訪を開始して、その要望するところを詳しく調査し、また各画家の秘蔵する残りとぼしい輸入絵具のチューブを譲りうけるなど、研究のための資料を集めた。」
 その当時、大阪工業技術試験所の桑原利秀氏(耐久性顔料の国産第一号開発者)が読んだとされる朝日新聞「天声人語」とは次の通りでした。

- 朝日新聞「天声人語」昭和21年10月6日
 この秋の美術展をみて誰しも感ずることは、色彩の貧しいことであろう。あんなどんよりとした、感覚のにぶい絵具では、いい絵が生まれるわけがない▼オヤッと思って、たまたま目をみはらせるのは、絵のうまさよりも、材料としての絵具の美しさである。こんな美しい色があったのかと、あたりの汚い色調と対比して、感嘆される▼こうした絵具は、みな戦前からの輸入もののストックである。油絵具にしても、岩絵具、顔料にしても、欧州や中国からの輸入が絶えてからは、こんなにも薄汚く落ちてしまった▼絵具に関しては、今まで余りに海外依存と職人まかせだった。画家も科学者も絵具の製造に無関心だったのが日本の美術をこんなにも汚くした。美術文化も、いい材料としての物の裏付けを忘れていたのだ▼法隆寺の壁画の美しさも、描法だけでなく絵具にある。柿右衛門の赤絵も、あの色を出す石や陶工の発見である。墨も染料も日本ではいいものを造っている。いい絵具をつくれぬわけがない。▼それには商人まかせ、職人まかせにしないで、画家も科学者も参画せねばだめだ。彫塑の油土にしても、紙、カンバス、筆、額縁にしても同様だ▼美術文化の建設といってもまづマテリアルの質をよくしなければ、美しい美術は生まれない。

 また『大阪工業技術研究所五十年史』には、油絵具の開発に関わったのは研究者たちばかりでなく、多くの画家たちにも協力を得たことが次のように記述されています。「専門家用絵具に必要な条件は、色そのものが厳格な画家の注文に合致することはもちろんであるが、日光その他大気に対する不変性、さらに画をかくときの作業性である。これらの必要な性質を左右するものが顔料・油・およびこれらを練り合わせて絵具を作る技術の3者であるが、その中でももっとも大切な顔料の製造研究に着手することになった。しかしながらこれらの特殊な顔料の製造法に関する文献はほとんどなく、わずかに芸術院会員である山下新太郎画伯から借り受けたJ.G.Vibert著“Science de la peinture”(『画の科学』)をたよりにするほかはなかった。しかしこの著者は画家で、化学的に詳しい記述はなく、また当時はいってきたPBレポートにもこのような特殊な顔料についての項はわずかで参考文献はほとんどなかった。-中略-
 まず製造研究の対象となったものは従来わが国で製造できなかった次の顔料である。コバルト・ブルー(CoOとAl2O3との化合物)、セルリアン・ブルー(CoOとSnO2との化合物)、コバルト・バイオレット(リン酸コバルトまたはヒ酸コバルト)、コバルト・グリーン(CoOとZnOとの固溶体)、ビリジアン(含水酸化クロム)、ミネラルバイオレット(リン酸マンガン)、オーレオリン(亜硝酸コバルト・カリ)、ガランス類(アリザリンレーキ)。
 これらの顔料について、まずそれに必要な化合物を作るための合成条件を調べることを第一とし、次にはこの結果わかった合成法をさらに検討して、顔料に適する粉末粒子を作る方法を研究した。また技術的な面だけでなく、工業的に製造し得るための経済的な面についての検討も同時に行われた。このようにして製造法の確立したものから試作品を1kg程度ずつ作り、これを絵具業者に依頼して油絵具にしてもらい、これを多くの画家に実際に使用してもらってその品質を検討した。これら一連の仕事で協力を得た会社は、クレパス本舗桜商会・ホルベイン(株)・松田画荘・クサカベ油絵具(株)などの絵具会社、画家としてはわが国で最も絵具に詳しい山下新太郎、岡鹿之助画伯をはじめとし、石井柏亭、辻永、黒田重太郎、伊原宇三郎、鍋井克之、古家新画伯らわが国一流の洋画家たちの協力を得た。これらの絵具はフランス・イギリスなど世界の一流品と何ら変わることのないことが実証され、いよいよ工業化の段階に進んだ。その結果顔料製造ならびに販売会社である鉄谷商店(株)が桜商会の共同出資を得て新たに東洋顔料工業(株)を創設し、当所がその設備および製造法・試験法などの技術を指導し、昭和24年秋から操業を開始した。同社の生産量は初年度2.9t、約600万円でその製品はほとんど絵具用として使用されたが、後述するように合成樹脂製品の進歩にともなって、それらの着色材としての用途が増加し、現在では年間約30t、約6,000万円の生産量を示し、その70%は合成樹脂着色剤に使用されている。研究開始から工業的生産にいたるまでの間はわずかに2年余、分権の皆無に近い状態、戦後の貧困な実験設備の中にあって、この成果をあげたのは研究者たちの一致協力とその熱意のもたらしたものといえる。」
 以上のように、油絵具では長い伝統と品質に定評あるフランス・イギリス・オランダ・ベルギー製などに追いつこうとして、日本が耐光性を高めた顔料を使用した油絵具を作れるようになったのは昭和25年頃からのことでした。

明治時代の油絵具の起源



大正時代の桜商会(サクラクレパスの前身)が製造した油絵具の広告

 サクラクレパスでは創業当初から、クレヨン、クレパス、水彩絵具とともに油絵具の研究も始めていました。大正13年に一部発売されましたが、当時の日本人画家たちがヨーロッパ製品を全面的に信頼していたため、外国製の油絵具を参考にして研究が進められ、専門家用油絵具として昭和4年に耐光性を高めた改良品を発売しました。当時、すでに無機系顔料として鉄、銅、クロム、鉛、カドミウム、水銀系のものは存在していたので、これらの範囲で耐光性のあるものが選ばれ、油はポピーオイル(ケシ油)、リンシードオイル(アマニ油)などの乾性油が、乾燥促進剤としては鉛、マンガン、コバルトなどの脂肪酸金属塩が配合されていました。
 第二次世界大戦中は当然のことながら原料の入手難で生産は思うようにならなくなり、終戦直後の物資不足時代も同様でした。戦後3、4年を経て顔料、油類など原料の改良と開発があり、ヨーロッパの油絵具の品質と同水準に向けて再出発をしました。
 油絵具では顔料が作品の耐久性を左右する重要な要素となり、ヨーロッパでは早くから耐久性の優れた顔料が配合されていましたが、国産品はまだその水準に至っていませんでした。耐久性顔料の国産第一号開発者である大阪工業技術試験所の桑原利秀氏によって開発された顔料を配合したサクラ油絵具56色が昭和28年に完成しました。これらの油絵具にはチューブの巻紙にオレンジ色のシールで「大阪工業試験所指導顔料使用」を表示して、ヨーロッパ製品に負けない品質であることをPRしました。その後も改良の研究は続けられ、昭和30年から45年にかけて、絵具の練りの硬さ、チューブ内の硬化ならびに分離、塗面の艶、チューブ容器からの油洩れなどの問題に取り組みました。


 昭和46年には専門家用絵具のブランド「ヌーベル油絵具」が誕生しました。これは、サクラ商標による学童用の知名度が高いため、専門家用の描画材料にはヌーベル商標を用いた商品展開をしました。しかし、平成3年にオランダの老舗絵具メーカーであるロイヤルターレンス社を買収したため、同社の専門家用「レンブラント油絵具」を販売することとなり、ヌーベル油絵具は廃止になりました。(完)

清水靖子(サクラアートミュージアム主任学芸員)


About Paints and Materials | Sakura craypas web magazine for adults
  • 小学生が楽しむサクラ
  • 中高生が楽しむサクラ
  • 大人が楽しむサクラ
  • 先生のためのページ
ページの先頭に戻る