



画家・中村善策の略歴年譜には「4歳の時に次兄に伴われて、初めて小樽公園でクレヨンを使って写生をした。」という記述がしばしば見出されます。中村善策が4歳というのは明治38年ですが、日本にクレヨンが輸入されたのは大正6、7年頃という通説と大きく違ってきます。そこで中村善策の著書を詳しく調べてみると、ここでクレヨンといっているものは「フランス製の蝋チョークで、十二色が函の中に2列に並んで入っていて、アルファベットと龍のようなデザインが、濃い緑色の包装函に印刷され、この蝋チョークは世界中で使用されていた。」と述べています。
山形寛著『日本美術教育史』(昭和42年、黎明書房)では、クレヨンについて「わが国図画教育における描画材料としての歴史は古い。明治初期においてすでに灰筆(ケレヨン)の名によって用いられ、明治十九年(1880)の図画取調掛の調査主意の中にもクレヨンなる名称が出ている。しかしそれら古い時代のクレヨンは、必ずしも今日いうところのクレヨンと同じ物ではなかったのである。新定画帖時代の色彩材料としては、低学年では色鉛筆、高学年では透明水彩絵の具を用いることになっていたが、地方では、色鉛筆が高価だとの理由で、蝋ペン又は蝋チョークという名称の、粗悪な一種のクレヨンを用いていた。しかしそれ等は蝋分が多く、蝋の質も悪くて、つるつるして紙へののりが悪く、重色、混色など殆どできなかった。」
森田恒之著『画材の博物誌』(平成二年、中央公論美術出版)では、「明治三〇年代中頃には、赤と黒のろうチョークは子供相手の駄菓子屋などに出回っていたそうである。ろうが多すぎるうえに色数がなく、落書き以外に用途がないともいわれるが、石版製版用には色がついているだけで上等である。印刷用の不良品や余りものが子供相手の街角に出たのかも知れない。大正に入って写真製版が普及するまでは石版が絵画的なものを大量印刷する有力手段だったし、色刷りの商業広告などはその後も大きい需要があったことを忘れることはできない。」
ベニー&スミス社の歴史には、クレイヨーラというワックス・クレヨンを開発したのは1903年(明治36)とあります。このアメリカ製のクレイヨーラを、東京・神田の駿河台下にあった五車堂が輸入したのが大正6、7年頃であったというのが通説です。五車堂は現在ありませんので、明治2年から輸入業をしていた東京・日本橋の丸善に問い合わせてみました。
丸善には「本の図書館」という部署に依頼して、同社の明治時代以降から大正10年までの輸入品カタログにクレヨンの輸入に関する記載がないかを調べていただきました。明治21年に「畫學用クレヲン」が初登場してきますが、同時に「クレヲン挟み」というクレヨン・ホルダーのことも掲載されていたので、これは今日のクレヨンではなくチョークもしくはコンテのようなものであろうと推測されます。さらに、明治23年のカタログに登場している「クレオン」は英語表記で"Chalk Crayons"とあるので、チョークもしくはコンテのようなものと思われます。
さらに、昭和5年発刊の『アルス美術大講座』第一巻(アルス刊)の中で、日本にパステルを普及したパステル画家の矢崎千代二は「ドイツのライフェンシュタイン(Reifenstein)は固い色鉛筆を発明して蝋パステルと名づけ……(後略)」と書いています。
中村善策が明治時代に使っていたという"クレヨン"は、おそらく山形寛の著書にある"蝋チョーク"であり、この蝋チョークは矢崎千代二が言うところの"蝋パステル"であり、蝋パステルは"固い色鉛筆"のような"蝋ペン"とも言っていいような硬い描画材料だったのでしょう。
これまで日本におけるクレヨンの発達の歴史は、大正6、7年頃にアメリカ製のクレヨンが輸入されたことを起源とする考え方にありましたが、蝋チョークを中村善策のようなプロの画家がクレヨンに類似した描画材料とみなしていたということは、日本におけるクレヨン史を再考しなくてはならないと思われるのです。

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